逆再生

いつからだろうか、
自分が考えたこと感じたことより
それがどう見られるか受け取られるかを
優先してしまうようになったのは。



最初は、自分を守る手段だと思っていた。
考えたこと感じたことを無防備にさらして
それを否定され軽蔑されたときに
自分の存在までもが深い傷を負ってしまうことを
避けるために。



自分を活かす手段だとも、思っていた。
「素材」をそのままの姿で人前に並べるよりも
自ら手を加えて形を整えることではじめて
「素材」の存在に注意が払われることも
あるはずだと。




そして、もう一生懸命に守り、売り出す必要もなくなったいま、
自由の身となり、広い世界に開放されるはずのそれは、
自力で立つことが難しくなるほど筋力を失い、
驚くほど淀み、混沌としていた。




それが、いつか研ぎ澄まされた輪郭を持ち、
生まれたままの身軽な姿で、自由に世界を闊歩する力を獲得するまで、
少し残念だけど、まだまだ相当な訓練が要りそうだ。

進路をとれ

IDEAS初日のオリエンテーション修了後、
先生やスタッフの方が懇親会を開いてくださった。



知的探求を生業とする研究者と、
何がしかになろうと意欲を抱える研修生。
他愛もない世間話などほとんどなく、
話題は自然と私たちの問題意識の対象や
今後の進路のことに向かう。
そして、するどく切り込まれる。



漠然とした興味を語る私たちに対して、
ここから2〜3ヵ月で、具体的に
自分が対象とするテーマを絞り込むべき、と。
分かっていたものの、「漠然とした興味」を
10年以上引きずってきた私にとっては
かなりの難題である。



たとえば「資本市場のメカニズムを活用し、
貧困や環境などの社会問題の解決に役立てる方法を
探りたい」という?漠然とした興味”を抱える、私の場合。
『貧困や環境という手垢のついたテーマではなく、
その中の何を解決すべきと考えるのか』
『研究したい国や地域はないのか』など。
つまり、シミュレーションも含めて、どこの国のこういう取り組み、
といった個別具体的な事例を見つけるということか。



『ではそのために、どういった勉強が必要と考えているか?』
と聞かれ、(この時点で面接でのやりとりが思い出され、同時にあれから
自分の考えが少しも深まっても明らかにもなっていないことを反省する)
ファイナンスのような資本市場の論理と、その対極にあるとみなされてきた
社会問題解決のような公共的な分野をつなぐもの、その間に解があるような
気がしているため、どちらの道から入ったらいいか迷っている、と答えると
「開発経済」という王道をいく道もある、と。



いづれにせよ、しばらくこうした問答を繰り返し、とりあえずでも
進行方向にレンズを絞りこまなければいけない。ここが一番妥協しては
いけないところだと分かっていながら、自分が納得のいく道筋を描き出せるのか
大いに不安も残る。相当のハンデを抱える英語対策もやりながら。



それでも、精一杯悩み、考えることが許され、
何よりも、それを相手にし、答えてくれるようとする環境に
いられることへ有難さを、忘れずにいたいと思う。

ひとりラン

走りなれたはずの皇居周回コースを
ひとり、じっくりと走ってみる。



 自分と外界を隔てる、一枚の皮

 その内部と対話する時間

 その外部を感受する時間

 その二つが融合し、無になる時間




たった30分足らずの、濃縮された時間。
2年間、向き合い続けたこの時間がなかったら、
論文を書くことも、会社を辞めて進学を決めることも、
なかったかもしれない。



座禅が、バスを降りる決断につながったという
円融寺のお坊さんの話を思い出す。



いつもなら、
たっぷり汗を流したあと、
シャワーを浴びてさっぱりしたら、
とぴきり美味しい食事が待っている。



でも今日は、
たっぷり汗を流したあと、
シャワーを浴びてさっぱりしたら、
さてと学校に向かう。



それも、また良し。たぶん、これでは続かなかっただろうけど。

変化の質

これまでの転職には、ほとんど何の不安もなかった。
それまでの場所に居続けるよりも、次の場所に移った方が
総じて状況が改善するという、確信のようなものがあったから。
もちろん、リセットボタンを押してまたスタートを切るような
真新しい気持ちになれることへの期待もあった。




でも、それを2回経験して気付いたのは、
このやり方が“相対的な”解決策でしかないということ。
スタート地点に引かれた線と走りだした方向に、1ミリの狂いもないのなら、
この方法もやがては素晴らしい結末を迎えるかもしれない。
でも、いつしか周りに広がる景色に覚えはじめた違和感にフタをして
いくら“相対的な”改善を繰り返しても、自分が真新しくなったという
瞬間的な幻想が過ぎ去れば、大きく変わらない景色を走っていることに気付く。




だから、3度目の場所では、この“相対的な”やり方に解を見出すことは
やめようと思っていた。「やってもしょうがない」という消極的な意味だけではなく、
“相対的な”改善を繰り返し、かなり恵まれた環境にあるという自覚もあったから。
ただ、拭いきれない違和感は、遠くの親戚の子どものように、しばらく見ない間に
すくすくと成長し、遠くから聞こえる叫び声がかすれていくことに、心がざわついた。




今回、新しい扉の向こうにどのような景色が見えるのか、
違和感はその量と質をどのように変えていくのか、まったく分からない。
分からないから、いままでは無かった大きな不安も感じている。
でもそれも、これまで繰り返してきた比較可能な“相対的な”状況の改善ではなく
別次元での変化が起ころうとしているからだと、同じだけ大きな期待で受け止めたい。

楽観の勝利

誰に頼まれたわけでもなく、自分で決めたことなのに
締切りが近づくにつれて日増しに気が重くなるという
本末転倒ぶり。



1月の寒い部屋でパソコンに向かいながら
「完成」に近付いているのかも、そもそも何が「完成」なのかも
さっぱり分からなくなってくる、たとえば試験勉強とはまったく性質の違う厄介さに
ほとほと手を焼いていた。



「ギリギリまで」というより「ギリギリだけ」頑張って、夜遅くにポストに投函した。
この名もなき挑戦は、どうせまた誰も知らない場所で、そっと息をひそめるのだろう。
それでも、「挑戦しなかった」という後悔を後に残さないだけ良かったとしよう。
そんな気持ちとともに。






みずほ学術振興財団 懸賞論文 経済 社会人の部 2等 入選



どこかで期待は持っていた。
しかしそれは、自分の中の異様なほどに楽観的な側面が
根拠なくいつも勝手に抱いてしまう、コントロール不能な単なる期待だった。
その後ろ盾のない期待は、これまで何度となく当然のごとく破れてきているのに、
「そんなことはお構いなし」とでも言わんばかりに、いつもめげずに顔を出してくる。



理性は、半ば呆れた顔でそれを見る。自信なんて、まったくなかった。



でも今回ばかりは、能天気な期待が勝利を収めたようだ。
「そんなこともあるんだなあ」というのが、いまの正直な感覚。

トレイルラン

zen9112011-10-27

都会の喧騒を抜け、大磯に着くと
まばゆい日差しに迎えられる。



平坦な道を3キロほど走り、その麓に立つ。
あっという間に息が切れるほどの
急な斜面をくねくねと登り続けると
いつの間にか、濃い自然の中にいた。



湘南平で、初めてのトレイル・ラン。
走ることは、なんの道具も必要なく
特別な技術も要求されない。
それなのに、こんなにも奥深い。



We are designed to run.



夜は、ようやく予約がとれたビストロ
「ガール・ド・リヨン」へ。



“とりあえずビール”の代わりに
何気なく頼んだサングリアが
とても味わい深いことに驚かされる。
サングリアにも手を抜かない
お店への期待は自然と高まる。




くったりと味が馴染んだラタトウイユ、
ビーフシチューのように濃厚なモツ煮込み、
鴨とソーセージがペースト状になった豆のソースをまとったカスレ、
煮込み料理のオンパレードで、南仏の田舎にでも行ったような
気分になる。



その気分を助長するのは、“なみなみ”を超えて
グラス100%まで注がれるワイン。
本当に、南仏の田舎に行きたくなる。



走ることと、食べること。
そんな人間の基本動作に、あえて丸一日かけてみる。



We are designed to eat too?