根の深さ

発言をする、ということが苦手であると
明確に意識したのは、大学3年のゼミのときである。
確か、一年間のゼミで自ら発言したことは
一度もなかったように記憶している。



政治の枠組みも、経済の仕組みもまともに知らず、
まして、そこに自分の考えを持つことなんて、
雲を掴むようだと感じながら、そこに座っていた。
日中は、就職活動で、さらに苦手な
自己紹介や自己主張ばかり求められていた疲労感が
発言に要するエネルギーを奪っていると思っていた。



それでも、その年のゼミ論の発表では、
先生から「一番良かった」と言われた。
それは良くも悪くも、おそらく内容ではなく、
発表スタイルそのものを指したものだった。
いま思えば、発言の少ないことを気にかけて
自信を持たせてくれようとしたのかもしれない。



しかし翌年になり、前年の反省から
議論に参加することを自分の目標に据えてみたものの
発言ができない状態は相変わらず続いた。
政治の枠組みや経済の仕組みは相変わらず分からないままだったけど、
分からないなりに自分の視点を持つ方法らしきものを掴みかけていた。
だから、時には何か「言いたいこと」もあり、それを頭の中で反芻している間に、
先生が同じことを話していることが何度もあった、気がする。
そのたびに悔しさでいっぱいになったけど、同時に、それを繰り返して
自分の視点を持つ方法らしきものは、少しずつながら磨かれてきた。
でも、それが自分の思考の世界から出て、他の人の目に触れることはなかった。
だから、それが勘違いだと言われたとしても、証明の仕様がない。



この状況は、この時期から突如として始まったわけではない。
ただそれ以前に、人前で自分の意見を述べたり、人の意見に反応したり、
論点を提示したり、そういうことが求められる状況に置かれなかったから
顕在化せず、自覚する機会を得なかっただけのことだろう。
もっとも、それがずっと前の遥かに柔軟であった頃に訪れていたなら、
状況は根本的に変わっていたのかもしれないけれど。



そんな2年間で残ったものは、両手に余るほどの悔しさと、
勘違いかもしれないけれど、雲の中から何かを掴んだような感覚だった。



学生に戻った昨年、この状況に久しぶりに出くわすことになる。
この時には、もう前回のような雲を掴むような感覚は薄れ、
手を伸ばせば「言いたいこと」に届き、
必要なら無理にでも作り上げることができた。
でも、発言することの葛藤は相変わらず大きかった。
頭の中の会議を開いた結果、却下された意見は、
めでたく通過したものより、ずっと多かったように思う。
でも、なぜか素晴らしそうな意見ほど、却下されることが多かった。
その素晴らしさが、勘違いだと証明されることを恐れたのだろうか。
それとも、それが素晴らしすぎるばかりに、その素晴らしさを表す言葉を
見つけることができなかったのだろうか。



年長なのに発言を譲らないのは大人げない、とか
知識をひけらかすのははしたない、とか
日本人同士だから感じる特有の恥じらい、とか
発言できな理由はいくらでも挙げられた。
何ひとつとして、意味を持たないけれど。



外国人からは「それではアメリカの大学では通用しない」と言われた。
先生からは「コントリビューションがないのはタダ乗りだ」と言われた。
その頃は、質を問わず、むやみに発言することがいいとされる風潮に
どうも納得できないことが、自分が最も妥当だと思う理由だった。
でも「それは発言しない言い訳にしか聞こえない」と言われた。
確かに、そうかもしれない。今思えば。
頭の中で、どんなに白熱した会議が開かれていようと、
自分ひとりを除いた誰から見ても、それは何も考えていないことと
何ら変わらないのだから。



そしていま、年長でも、ひけらかすほど知識の優位性も、
日本人同士の恥じらいも、一切の理由がなくなった。
でも、状況はさらに深刻化している。理由は、ある。
英語で質問が8割くらいしか分からないから。
途中で言葉が出てこなくなるのが怖いから。
周りがどんどん発言して隙間がないから。
そして、それが白熱すると、さらに英語が分からなくなるから。



頭の中で反芻している間に、先生が同じことを話している。
そのたびに、また、同じような悔しさを噛みしめる。
それは最初に感じた悔しさよりも、ずっと空しく、苦い味がする。
それを味わうたびに、自分の中で、他の誰にも見えない何かが
研ぎ澄まされているのかどうかは、もはやよく分からない。
そうだとしても、そのことの価値はずっと薄れている。
誰の目にも触れないものは、存在しないことと、
だんだん同義になりつつあるから。



なぜ、いつもこうなのだろうかと自問自答する。
それを重ねていくうちに、自分の育った家庭環境にまで行き着く。
かなりもっともらしい理由はある。でも、だからといって、何かが変わるわけではない。
結局、いくら時間が経とうと、世界のどこへ行こうと、理由は転がっている。
ひとつ無くなっても、すぐに次を拾い上げることができる。
でもそうやって、次々に新しい理由を拾い上げるたびに、
空しさや苦さが増すことも、もう知っている。



世界に70億の人がいて、
そのうちたった数十人がいる部屋で
何を言おうと、言葉に詰まろうと、どう思われようと、
小さいことでしかない。時間が経てば、誰が何を言ったかなんて
大抵は忘れてしまう。その積み重ねで、印象や評価は残ってしまうけど。
黙っていたって、存在が消えるわけではなく、それとして印象や評価は残るのだし。



大げさに考えすぎだ、というのは正しいだろう。
それなりのコストを払って、黙っているのは無駄だ、というのも正しい。
コントリビューションする責任がある、というのも正論だ。



どれを言い聞かせても、どれに納得しても、結果は変わらなかった。
こんなことばかり考えて、くたびれる前に、飛ぶしかない。
そうは分かっているんだけど、とまた弱気が首をもたげてくる。



2カ月以上が過ぎた。両手はまた、余るほど苦々しい悔しさでいっぱいになっている。
こんなに深く根を張ったものが、そう簡単に消えて無くなりはしないだろうし、
頭の中で輝きを放っていたものが、外に出したとたんに色褪せてしまう
次の悔しさも待ち構えているのだろうけれど、
2カ月後、もう新しい理由を拾い上げることはやめて、
その新しい苦さに悩んでいたとしたら、それはそれで辛いだろうけれど
それなりによくやったと、そう思うことにしよう。