未来の選択

たとえばこの2年で、どんな選択を経てきただろうか。


仕事を辞めて学生になる、仕事を続ける。
千葉へ引越す、東京に残る。
進学する大学院。
渡米の時期。
アメリカでのアパート探し。
中古の車、家具。
ペーパーのトピック、卒論のテーマ。
グループワークのメンバー。
ホームパーティーのメニュー。
アイスクリームのフレーバー。
そして、仕事。


選択の重要性と、それにかかる時間は、必ずしも比例しない。
後から考えれば、それほど悩む必要がなかったと分かるものも、
なぜあんな簡単に決めてしまったのだろうと悔やむものもある。
重要なものごとほど、目をつぶってラケットを振るがごとく
必要な手順をいくつも飛ばして一気に結論に帰着しているような気もする。
大きな結論を導くには、論理の枠組みを超えた力が必要だからとも言えるし、
そこに辿りつくまでの途方もない手順を律儀に踏むだけの根気がないからとも言えるし、
単にその重さに圧倒され恐怖に目をつぶっているからかもしれない。



選択の正しさと、それにかける労力も、おそらく比例しない。
しかしそれが、労力をかけることが無意味だということには、もちろんならない。



選択の正しさと、それの経験値は、もしかしたら比例するかもしれない。
少なくとも、同じ選択において、同じ間違いはしない。
フォードの中古は、もう買わない。
運転に慣れていなくても、それに臆することなく試運転は慎重にやる。
よっぽど自信がなければ、誰かに頼ってでも慎重にやる。
市場価格は綿密に調べる。



ならば仕事は?
最低1回は大きな選択の失敗をしている。
その失敗は、当時考えていたほど簡単に挽回できるものではなく、
それはいまだに尾を引いているし、これからも逃れることはできないだろう。
納得いくまで続けなかったこと、途中で諦めたこと、
それを認めず根拠のない楽観を持ったこと、
行き先についてのリサーチ不足を未知なるものへの探求にすり替えたこと、
伝える努力を怠ったこと、そういう努力が必要であることを認めなかったこと、
努力不足を「とりあえず」という言葉で包み隠したこと、
その場の努力と後に残る傷の重さを量り間違えたこと。
失敗の理由は、数え上げればきりがない。
しかし、あの時どうしたらこれらを回避できたのか、
これらと逆の判断ができたのか、いまだに答えは分からない。



そして今回は?
同じ失敗は繰り返さない。目を開けてラケットを振る。
でもそれだけで、最高の選択ができるとも思えない。
やるべきことはすべてやった。
でも、最後の選択だけを誤った。そんなこともあるかもしれない。
律儀に手順を踏むだけでは、最高の選択に辿りつかないのかもしれない。
そもそも最高の選択というものに、何の後ろ盾もないのだけど。
行くべき道はひとつしかない。それを他と比べられるのは
その道を行く前だけであって、一歩足を踏み出せば、もう比べるものはない。
ただ足下のその道と、その先にある未来が、あらゆる可能性の中で
最高のものだと信じられるかどうかでしかない。



2年前に仕事を辞めて学生になるという決断をしたとき、
その道が、仕事を続けるというもうひとつの道よりも
明るい未来につながっているかどうか、
それは分かりようがないと言った。
自分が選んだ道に誇りを持てるかどうか、
それがすべてなのだと。



どちらがどちらよりもどうか、ではなく、
どちらの道に立ったら自分はその場所に誇りが持てるか。
それをあと数時間、考えてみる。



時間はかけた。
たとえそれが選択の正しさと、必ずしも比例しないとしても。