標準機能

そして、残り2ヵ月と少しになった。
出来たことはメモ用紙一枚分くらい、
ダメだったことは畳一枚分くらい。
それでも、出来たことがあるなら
それを大事にすればいいかと納得しかけた矢先、
2枚目の畳が持ち出されることとなった。



後半に入り、まともに参加する
最初で最後のプレゼンテーション。
驚くほどアンフェアなグループワーク、
その中で心底理解しないまま進めた分析、
それゆえに何も見えてこない結論、
それを解決するには足りない時間、
それらの欠点を補うには低すぎる英語力、
そんな諸々の事情はあったにせよ、
それにせよ、余りにもひどい出来だった。



グループワークにまつわるゴタゴタも、
不十分な理解も、時間の制約も、なんとか乗り越えて、
周りはみんな、それなりに帰着している。
そんな場面を何度も見てきた。
背負っている英語力のハンデは
誰よりも大きい自信はあるけれども。



実は分かっていなくても、堂々と発表をする。
それがいいのかどうかよく分からないけれど、
それもひとつの「プレゼンテーション」という枠組に
求められていることなのかもしれない。
もちろん、完全に理解している方がいいに決まっている。
でも、ある分野を完全に理解するなんて、そもそも
数カ月でできることではない。だから、分かったところと
分からないところに線を引いて、その線の中で戦う。
たとえば、そんなこと。



大学院の成績評価においてプレゼンテーションが
テストやペーパーと肩を並べているように、
そこには明らかに独自の要素が求められている。
テストに向かう準備と、ペーパーを書く準備が異なるように、
プレゼンテーションには、それに対応した準備が求められる。
ただ、人前で話す、ということとは違う何か。




日本で教育されてきた私は、
おそらく世界最高水準でテストへの対応力を訓練されてきて
それを独特の準備だとも思わないまま、
ごく自然にその態勢に入ることができるのだろう。
それは必ずしも良い結果を保証するわけではないけれど。



ペーパーを書くという訓練は、
大学でその機会に出会うことになるものの、
もともと随筆調に傾く癖はなかなか矯正されることなく、
そのまま懸賞論文を突破。10年ぶりに学生に戻り
しばらくの惨めな矯正期間を経て、徐々にアカデミックペーパーと
分類されうるものが書けるようになった。
随筆調に比べるとなんだか味気ない気がして
自分には合わないと遠ざけてきたけど、
その枠内に入ってみると思っていたよりも居心地がよく
それ枠外のものが書きずらくなっている感すらある。
メモ用紙一枚の中には、それをある程度は英語でも
評価してもらえたことがある。



残るプレゼンテーションの訓練も、始まりは同じく大学にて。
ごくたまにあったクラスでの発表も、
とくにそれを特別なものと意識することはなかった。
ゼミ論の発表は、完全なるビギナーズラックで先生に褒められた。
私はいまだに覚えているけれど、おそらく先生は覚えていないだろう。
就職活動での面接も一種のプレゼンテーションと捉えるなら、
それは惨敗だった。そして長いブランクを経て、
最後の転職先でそれは仕事の大きな部分を占める時期もあった。
特別にプレゼンテーションが上手いという評価は受けていない。
だから、需要と供給の関係に従って、自然と裏手の、
手間も時間もかかり、多くの人はやりたがらない役割を担うことが増え、
表で目立つ仕事をする人たちを恨めしく思うこともあった。
あまり納得できない話で練習をさせられ、不快になることもあった。
何を話すべきかに悩むことはあっても、話す技術に腐心することはなかった。
いま思えば、それはプロ意識に欠ける行為だったのかもしれないけれど、
当時は、小手先の技術は、中身ほどには大事ではないと思っていた。



その思いは未だに変わらないけれど、もう一度いま思うと、
それは単に訓練が嫌で、避けたくて、テストの準備と同じような心構えで
中身だけに労力を割いていれば、その後は自然についてくるだろうという
都合のいい観測を笠に怠っていただけのことなのかもしれない。
プレゼンテーションは、テストやペーパーと同程度に、
それに応じた努力と準備の結果だと考えられているならば、
それによって評価されることも、その失敗を非難されることも、
前よりは少し納得がいく。気がする。
もちろん、才能や能力の違いは大きい。
でもそれは、テストやペーパーでも同じ。
だからといって、それを理由にすることはできない。



すごいプレゼンターになりたいとは思わない。
そうはいっても才能だから、自分にそれがあるとも思えない。
でも、下手だというレッテルも欲しくない。
裏手で立ち回って、表は誰かに任せた方がいいよ、とは。
自分が伝えたいことは、自分で伝えたい。



「失敗を必ずしも自分のせいだと思わない方がいい」
という言葉を聞いた。今日の失敗は、明らかなる準備不足で
それは他の誰でもなく自分のせいでしかない。たった24時間前の。
同時にその失敗は、テストやペーパーに比べてはるかに
訓練の機会が乏しかった環境にも起因する。
才能不足もひとつの環境要因として。
でもそれを知った今、それを乗り越えるのはまた自分でしかない。
そして、それは努力と準備で可能なのだとされている。
おそらく、少なくとも、ここでは。



プレゼンテーションの態勢に自然に入るスイッチが
環境の要因であれ、自分にはないことを自覚する。
テストとペーパーとプレゼンテーションのすべてで
必要水準の品質が揃って、はじめて
標準機能が搭載された人間として認められる。
ということなのか。あ、あと英語。



あと2ヵ月と少し、生まれ育った日本とは違うけど、
せっかくここに来たので、その標準機能を備えて、
卒業が迎えられるように。英語は、
ちょっと努力と準備だけでは、無理っぽいけど。