なぜ「35歳」だったのか

35歳でアメリカの大学院に留学し、もう若くない心身にはややハードな日々を送りながら、ふと、この経験はいつか誰かの役に立つことがあるかもしれないという考えが浮かんだ。そしてその考えは、いつしかハードな日々を乗り切る心の支えにすらなっていた。

と言いながら、卒業・帰国して既に数年。「♪何から伝えればいいのか分からないまま時が流れて」このまま行くと完全にお蔵入りする気配がしてきたところで、ようやく重い腰を上げて、もはや自分以外の誰の役に立つのか分からない「35歳からの大学院留学」について、ぼちぼちと自分なりに書き始めてみることにした。

本当はリアルタイムの発信の方が臨場感もあるし、今になってみると「そうしておけばよかった」という後悔がないと言えば嘘になる。が、時間が経てば、日々の細かい情報は風に飛ばされ、本当に必要なものだけが残る。そして何といっても、留学したことがどう人生に作用したかは、後から振り返ってこそ意味がある。ということで、これまで先延ばししてきたことは、単なる怠惰ではなく熟成だったとして、この際正当化しておこう。

まずは、なぜ「35歳」だったのか、について。

大学卒業後、金融機関に就職し、29歳で3社目の会社に転職。順調に増える給与と、最年少の管理職というポジションに恵まれながら、何か満たされない日々を過ごしていたのが30過ぎた頃。

そもそも「社会を良くするお金の流れをつくりたい」という青々とした情熱を持って金融機関に入ったのに、まったくそれに近づいている実感がない。将来の自分の血や肉となるような痺れるような経験が積めていない。それが、満たされなさの根本だというのが自己分析だった。傍から見れば順風に見えるほど、目的から遠ざかっていく、そして満たされなさが膨らんでいく。

そんな34歳の時、とある懸賞論文への応募を勧められた。若手研究家を育てるという名目から、対象年齢は34歳以下。前々から論文なるものへの憧れを抱きつつ、きっかけ待ちの状態だったこともあり、その「最初で最後のチャンス」に押されるように、学部の卒論以来となる論文に着手。自分が頭の中だけで温めすぎてきたものを、頭から取り出して文字に落としてもきちんと輪郭を保っていられるのか、それを確かめたいという気持ちもあった。

それは東日本大震災の翌年。「東日本大震災と日本経済」というお題に、震災復興におけるソーシャルビジネスやソーシャルファイナンスの役割や可能性について、今思えば「論文」とは到底呼べるシロモノではない、想いと勢いだけで、何年ぶりかに徹夜して書き連ねた原稿用紙の束を夜のポストへ投函。

数か月後、2等入選の知らせが届く。後日、表彰式で受け取った金一封には「学術奨励金」の文字。奨励されているのか!これは何かしなければ。部分的に生真面目な性格も手伝い、審査員に名を連ねたそうそうたる先生方に背中を押された気になって、奨励金の行くべき先を探し始める。

そこで紹介された、アジア経済研究所の開発スクール。「大学以上、大学院未満」で途上国の開発援助に関わる専門家を育成する1年間のプログラム。ずっと民間企業で働いてきたキャリアと、開発問題の学びを合わせたら、「開発問題を解決するビジネスやファイナンスの仕組み」みたいな分野につながるのではないか。そんな発想から、一躍、次の行き先として急浮上してきた。

入学の年齢制限はなかったものの、数年前までは35歳を上限としていた模様。つまり、形式的には年齢不問だけど、実質的・経験則的には、せいぜい35歳くらいが限度ではないでしょうか、と解釈できる。

ここでまた、実質的な「最初で最後のチャンス」にぶつかり、兎にも角にも動かなければ始まらないと、初めて英語での志望動機に苦悶しつつ応募。「受かったら考えよう」くらいの軽い気持ちが、選考プロセスを進む中で、いつの間にやら「ここに行かなければ未来は開けない」くらいの気持ちになっていた。そして2012年8月、自分でも意外なほどあっけなく、10年超のサラリーマン生活に区切りをつけ、フルタイム学生となった。

開発スクールは、1年間で開発学を学びつつ留学準備をし、2年目以降は留学して学位を取る、というのが既定路線となっている。

こうして、まるで東京マラソンで5km刻みの関門を閉鎖時刻スレスレで通過していくランナーのように、世の中が勝手にそこここに張り巡らせた「35歳」というボーダーに時に足を掠め、時に背中を押されながら、もはや若手ではなくなる自分がどうあるべきか、どうありたいかに向き合わされ、数年前には全く考えもしていなかった(というか無謀と思っていた)海外大学院に35歳で留学することになる。