被災地を行く

田舎ののどかな風景に、突如として
壊れた民家や潰れた車が出現する。
やがて、瓦礫が散乱した土地に変わる。



宮城県の南三陸を走るバスの外には、
すでに映像で見慣れてしまった光景が広がっている。



ボランティアは、その日の状況に応じて人が配置が決まる。
あるグループは、林野を切り開いて畑地にする作業。
別のグループは、避難所の中の保育施設で子どもの世話。
そして私は、同僚と二人で海辺にある民宿へ。



車で案内してくれたのは、福岡から来た男性。
地元では無職だったが、ここでは食事と宿が提供されるボランティア活動を
4月から続けているのだという。すっかり地元に溶け込んでいる様子だった。




玄関を開けて声をかけると、おばあさんと小さな女の子が出迎えてくれた。
入ってすぐ向かいには、窓一面に水平線が広がる20畳ほどの広間があり、
その窓ガラスを掃除してほしいという。



用意されたバケツと布巾で拭いてみるも、いっこうに曇りが取れる気配がない。
「なかなかキレイにはならないんだね」と呟くおばあさんを見たら
なんだか申し訳ない気持ちになり、わずかに腐敗臭の混ざる海風と、
しつこく飛び回るハエ、流れる汗と格闘しながら、しつこく磨き続けてみる。
すると徐々にガラスは透き通っていき、最後にはクリアな海の景色が広がった。



窓の汚れなんて、人の生死に関わる問題ではない。
けれど、そこに人が生活している限り、その人にとって
部屋の窓が澄んでいることには、それなりに必要なのだと思う。



「地球を救いたい」そう唱えることはもちろん立派なことだけれど、
目の前のゴミが拾えることも同じくらい大切なのだと、近頃は思ったりする。
優先順位や方法は、やはり賢く判断しなければならないけど。



休憩時間、イチゴ練乳のかき氷を出して、おばあさんは話を始めた。
行き場をなくした人たちに民宿を開放し、1か月以上も世話をしたにも関わらず
公設の避難所でなかったために、何の支援もなく、悪口さえ言われたという話。
1,000万掛けていた家財保険も100万しか下りず、役所と喧嘩したという話。
被災したことの悲しみより、生きるために必死であるが故の憤りや怒り、
そして、これから自活していかなければならないことへの強い不安が感じられた。




午後は、登米にある小学校を訪れる。
津波で校舎が倒壊した戸倉小学校の生徒が通っている。
子どもたちの多くは、避難所や仮設住宅に住み、
寄付されたスクールバスがその通学を支援しているのだという。




真夏の太陽の下で元気に遊びまわる、一見したら普通の子どもたち。
その口から、ふとした瞬間に震災当日の出来事が語られたりする。
その傷跡の深さを、簡単に推し量ることはできない。




10万人ともいわれる被災者。
彼らは、今日を過ごすための衣食住が与えられればいいわけではない。
希望ある未来のための、今日がなければならない。