被災地を想う

会社主催の第1回被災地ボランティア、
そのオリエンテーションに参加した。


被災地の子供支援を行なっているNPOと協働して、
その活動を共にしたり、休日のイベントを開催するプログラム。
NPOは、被災した子供たちの学習の遅れを取り戻す手伝いや、
遊びやコミュニケーションを通じたメンタルケア、
その様子の変化などをきめ細かく観察することなどを、主な活動としている。



旅程や現地の様子などの説明に加え、被災地に赴くことに関する心構えについても、
臨床心理士を招き、1時間超のレクチャーを受ける。



被災者と接する上での留意点はさることながら、
実際に被災地の悲惨な状況を目の当たりにした時、
実際に被災者たちの傷ついた心と接した時、
自分自身の精神も支障をきたしかねないこと。
それが克服されないと、その後の日常生活においても
周囲に負の影響を及ぼしてしまう二次被害・三次被害に
発展することも、ありうるのだということ。



そうならないために、自分の精神を平常に保ち続けるためには
自分がそこへ行く理由を、目的を、明確に具体的に意識しておく必要があるのだと。
そして、参加者どうしで体験を共有し合うなどの事後的な浄化作業も有効なのだと。



ボランティアに参加することは、特別なことというよりは
むしろ当然のことと、何の気負いも責任も感じていなかったことが、
なんだか甘すぎたのかと、少し心配になったりもした。




でも、正直、自分がその地に立った時、
はたしてどんな精神状態になるのだろうか。
それをいま想像することなんて、やはりできない。



もし、そんなことができるなら、
被災地に行く必要なんて、半分以上はなくなってしまう。




間違えなく歴史に刻まれるであろう悲惨な出来事が、
そして、いまなお終息の目処がすら立っていない出来事が、
自分がいる国で、自分が生きるこの時代で起きているのに、
どことなく実感が伴わず、当事者意識が欠如している。
そのことへの苛立ちと、将来にわたって何か取り返しのつかない
大事なものを失っていっているような焦り。



それが、被災地へ行こうと思った最大の理由。



何かしてあげたい、もちろんそんな気持ちがないわけはない。
でもそれなら、寄付をすることが、自分にできる
唯一とは言わないまでも最大に近い行為であろうと思う。



そこで自分がする何かよりも、
そこへ行ったことの体験が、その後の自分の行動や考えに及ぼす影響が
少しでも被災地を救う何かになれば。



アイルランドの幼稚園で先生たちの手伝いをしたことも、
デンマークの森で子どものプレイ・グラウンドを造ったことも、
ベトナムの施設でストリートチルドレンと交流したことも、
すべては自分がそこにいてもいなくても、状況は何ひとつ変わらなかっただろう。



でも、すべて、私にとってはかけがえのない体験。



「行く」という行為を通じてしか心に刻むことができない体質は、
非効率的で決して性能がいいとは言えないけれど、
その体験が、やがて復興の1ピースになる日があると信じて向かいたい。