高野山 −絢爛
6時5分、鐘の音が響く。
朝の勤行が始まる合図。
大日如来が鎮座する本堂の空間は、
金色に輝き、驚くほど色鮮やか。
「禅の墨色の世界にたいして、
密教の世界は五彩の世界である。
五彩の世界も、原色の五彩の世界である。
それは、まことにケバケバしい色の世界である。
なぜに、そのような色の世界が必要であるか。
それは五彩の色を通って、
世界万歳、感覚万歳を叫ばれんがためである。」
(「空海の思想について」梅原猛)
真言密教の最大の特徴は、『現世肯定』にある。
死んで仏になるための教えではなく、
この現実を生きていくための教え。
昨晩の夕食に続き、
一流料亭にも負けない豪華な朝食をいただき、
真言密教的瞑想の世界を体験する。
禅宗の座禅は、とにかく「空(無)」になるのに対し、
阿息観は、宇宙との一体感を「イメージ」する。
足の組み方だって違う。
座禅は左足が上、阿息観は右足が上。
ふーん…と思うものの、言うほど簡単ではない。
僧侶さんたちは、そのために日々厳しい修行を積んでいるんだもの。
ツーリストが簡単に垣間見れる境地であるはずは、ない。
標高1,000Mを登る険しい山道や、
高野山の入口を告げる鮮やかな朱色の大門や、
密教道場として造られた大伽藍の根本大塔からは
空海の並はずれたエネルギーが伝わる。
重要な文化財が保管されている霊宝館には、
空海の直筆と言われる巻物が展示されている。
隣のおじいさんが、数珠を持ちながら、
ガラスケースの上から、一心に手をかざしていた。
空海は、「ありがたい」存在なのだ。
たとえ、その思想が理解できなくても。
彼は31歳の時、
必然とも奇跡とも思えるタイミングで、唐への留学を果たす。
当時、世界の中心であり、世界と同義であった長安で、
空海本来の普遍性・人類性は見事に開花し、
日本人という民族の枠、僧侶という階級の枠を
はるか高らかに飛び越た存在へと、昇華する。
高野山の急斜面を下るケーブルカーには、
日本語と、英語と、フランス語のアナウンスが流れていた。
空海の残した光は、1200年後の世界になお、
まばゆい魅力を放ち続けているのだろう。