高野山 −荘厳
弘法大師・空海が「天才」だと言うことを、
最近まで知らなかった。
その天才の最期の地、高野山に登る。
空海=真言宗=高野山金剛峯寺、
最澄=天台宗=比叡山延暦寺、
受験勉強の時は、この単語をセットで暗記した。
教科書に占める割合は、おそらく
2行かそこらだったように思う。
司馬遼太郎の「空海の風景」は
文庫本で、上下巻合わせて700ページを超す長編。
1200年前の日本が生んだ、ケタ外れの天才の成立を
丁寧に見つめている。
この本を始め、空海について、そもそも仏教について、
書籍で、講和で、テレビ番組で、必要最低限の予備知識を蓄えた。
おそらく、何の知識もなければ、この和歌山県の奥地に
何かの価値を見出すことは、とても困難だと思う。
まっすぐに伸びる杉や檜に囲まれた、神聖な参道を進む。
両側には無数に建てられた墓碑や供養塔。
中には、織田信長や明智光秀や武田信玄など
誰もが知る戦国武将のものもある。
宗や派を越えて、たくさんの魂がここに留まっている。
2㎞の先にたどり着くのは、奥の院の御廟。
空海は、いまでもここで、瞑想を続けていると信じられている。
空海が体系化した真言密教の理論は、
難しすぎて、凡人がその全容を知ることは、不可能に近い。
でも、宗教は、それを研究の対象として理解することと
それをただひたすらに、有難いものとして信じることは
まったく別物なのだと、お遍路さんの姿は教えてくれる。
写経も、どうやら同じことで、
「般若心経」の262文字の真意を取り込もうとするのではなく
ただひたすらに、有難いものとして書き連ねていくことが大事なのだと。
一文字、一文字、ただひたすらに。
宿坊で迎える誕生日。
もしかしたら、人生も同じことなのかもしれない。
いまここにあることの意味を問いただすのではなく、時には
一年、一年、ただひたすらに。
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高野山 一乗院