大地震の後

1995年の阪神・淡路大震災


連日のテレビ報道が、震災被害の悲惨な状況と
そこから立ち上がろうとする人々の姿を伝える中で、
おそらく自身も被災者であろう何人かが、避難地域に
自力でシャワールームを設置している光景を目にして、
途方もない無力感を覚えた。



もし自分があの場にいたら、果たして何かできるのだろう?
きっと、シャワールームが出来上がっていく姿を
指を加えて、ただただ眺めているだけだろう。



これまでの生活や仕事を通じて、「生きる」という作業を通じて
培われた知識や技能をもって、あの、何もない場所に
希望の光を灯している人たちの姿が、眩しく映った。



社会的地位が、高い人たちではないのかもしれない。
所得も、多くないかもしれない。
周囲にちやほやされることも、ないのかもしれない。
でも、それが何なのだろう?
あんなに、人々の役に立っている。
それ以上に、何の価値があるというのだろう。



2011年、東日本大地震
あれから15年以上経ったけど、私には相変わらず、
シャワールームを設置する知識も技能も、ない。



金融業という、世間を闊歩し、
平均以上の給与水準を誇って高笑いする業界は、
この、すべてが失われ、悲しみに満ちた場所に、
一つの光さえ灯すことは、できないのだろうか。




1995年、ただただ無力感を抱いていた頃から
然したる知識や技能の向上はないけれど
2011年、シャワールームを設置できない自分の無能さを受け入れ、
それでも何かできることもあるのではないか、と考える。



今の自分の行動が、
現在の被災地へ、未来の日本へ、世界へ
どのように繋がっていくのかを、想像すること。



それが、あまりに小さく無意味に思えても、
それに、絶望しないこと。